飛鳥時代・ざっくりまとめ

飛鳥時代の簡易年表

587年蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
589年が中国を統一
592年推古天皇が即位
593年聖徳太子が摂政・皇太子になる
603年冠位十二階を定める
604年十七条の憲法を定める
607年遣隋使として小野妹子を送る
法隆寺が建てられる
618年隋が滅び、が中国を統一
645年大化の改新
646年改新の詔
663年白村江の戦い(日本・旧百済が、唐・新羅に大敗)
672年壬申の乱が起きる
701年大宝律令が制定される
国名が「倭国」から「日本」になる
708年和同開珎がつくられる

飛鳥時代のはじまり

ヤマト王権の氏姓制度

ヤマト政権には「氏姓制度」という、身分による支配の仕組みがありました。5世紀~6世紀にかけてつくられたと言われています。
簡単に説明すると、「氏(うじ)」は血族の集団の名前(現代の苗字のようなもの)で、「姓(かばね)」は氏に与えられる称号のようなもの。

まず「」の方ですが、現代の苗字と違うところは、一族の長から労働者・奴隷まで全部ひっくるめた集団をその「氏」とすること。
その一族の元で働く者たちは、血縁がなくても全てが「〇〇氏」となります。

」の方は地位や役目を表す称号みたいなもので、例えば、一緒にヤマト王権を作った大和地方の豪族たち(つまり元は各クニの王だった人たち)には「臣(おみ)」、大王に古くから専門的な技能をもって仕えた武器担当や神事担当などの豪族達には「連(むらじ)」という姓が与えられました。
この臣と連のトップ、大臣」と「大連」が大王の下で中心となって政治を行っていました

蘇我氏と物部氏

飛鳥時代になる少し前のヤマト王権では、蘇我氏物部氏が大きな力をもっていました
蘇我氏は臣のトップ「大臣」で、国の財政を管理するポジション。
物部氏は連のトップ「大連」で、宮中の祭祀をまとめ、武器の管理など軍事関連でも働くというポジションです。
(同じく「大連」の大伴氏も有力な豪族でしたが、6世紀初めに失脚しています)

6世紀になって仏教が伝わると、仏教を広めたい蘇我氏と日本古来の神道を守りたい物部氏の間で争いが起きました。
この争いは長く続き、子の代まで持ち越されることになります。
6世紀後半、用明天皇(聖徳太子の父)が亡くなると、物部守屋が次の大王にと推していた穴穂部皇子が謀反を企てたとして誅殺され、物部守屋も蘇我馬子によって滅ぼされることとなりました。

推古天皇と聖徳太子(厩戸皇子)

父の代から続いていた争いを制し、物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は「大連」を政治から排除したため、これ以降は「大臣」が宮中の実権を握るようになりました。

馬子は物部氏との戦いにも参加した崇峻天皇を即位させましたが、政治の実権が馬子にあることを良く思っていなかった崇峻天皇との仲は良いとは言えず、最終的には馬子が崇峻天皇を暗殺したと言われています。

馬子は皇太后だった推古天皇を即位させ、聖徳太子を皇太子・摂政に立てて、共に政治を行いました。(この頃は、正式にはまだ摂政という地位はなかったので、そういう役職名だったわけではないです)
推古天皇の即位をきっかけに飛鳥地方に都が移され、ここから飛鳥地方に都が置かれていた約120年ほどを飛鳥時代と呼びます。

蘇我氏と天皇家

この頃の蘇我氏は天皇家と外戚関係を幾重にも結んでおり、推古天皇も聖徳太子も馬子と血縁関係がありました。
馬子から見て推古天皇は姪(馬子の姉妹と欽明天皇の子)にあたり、推古天皇の甥である聖徳太子には馬子の娘が嫁いでいます。

聖徳太子と蘇我馬子の行った政治

冠位十二階、十七条の憲法、遣隋使

摂政となった聖徳太子は様々な改革を行います。
まず「冠位十二階」という制度を作って、今までの氏姓にとらわれず能力のある者に役人としての地位を与え、「十七条憲法」を定めてその役人の心がまえを説きました。

またこの頃には中国大陸の戦乱がおさまり、が中国を統一していたので、再び国交を結ぶために「遣隋使」を派遣しました。
どうやら初回は門前払いされたらしく(中国の文献には残っていますが、日本の文献ではなかったことになっています)、二度目に送られた遣隋使が小野妹子(男性)です。

飛鳥文化と法隆寺

蘇我馬子と聖徳太子が仏教を手厚く保護したため、この時代の文化は仏教を中心としたものとなりました。
現存する世界最古の木造建築・法隆寺も、607年に聖徳太子が建てたものです。

飛鳥時代中期

乙巳の変

聖徳太子が亡くなると、抑える者のいなくなった蘇我氏の力は更に強くなっていきました。
蘇我馬子は聖徳太子の死後数年で亡くなりましたが、その息子の蘇我蝦夷・孫の蘇我入鹿が権力を引き継ぎ、更に大きな権力を手にしようとした入鹿が、聖徳太子の息子である山背大兄王を攻め滅ぼします。

そんな中、蘇我氏の権力の独占に不満を持つ者が増えていたこともあり、とうとう中大兄皇子(当時の皇極天皇の息子)と中臣鎌足により、蘇我入鹿が殺害されるという事件(乙巳の変)が起こりました
息子が討たれたことを知った蝦夷は自らの屋敷に火を放って自害し、蘇我氏が権力を欲しいままにした時代は終わりを迎えたのでした。

中大兄皇子と中臣鎌足

この事件の後、皇極天皇は退位を決め、弟の孝徳天皇が即位。(この時に日本で初めて「大化」という元号を定めたと言われています)
皇太子に立った中大兄皇子が政治の実権を握り、内臣という位をもらった中臣鎌足らと共にさまざまな改革を行いました。
翌年に孝徳天皇が出した改新の詔」から始まる一連の改革を「大化の改新」といいます

大化の改新

公地公民、班田収授法、租・庸・調

改新の詔では、土地も人民も全て天皇のものであるという「公地公民」、戸籍を作り、1人ずつに口分田を与えてその面積に応じた税を納めさせる「班田収授法」、納める税と労役について定めた「租・庸・調」などの条文が出されました。

なお、藤原京の跡から発掘された木簡により、日本書紀の編纂時にこの時行われた政策が潤色されたことが明らかになっています。
大規模な改革が行われたのは確かですが、のちの大宝律令の頃まで何十年かをかけて段階的に進められたのではないかという意見もあるようです。

薄葬令

改新の詔の条文にはありませんが、他にも様々な改革が行われました。
そのうちの1つが薄葬礼で、身分により造ることのできるお墓の規模を規定したもの。
殉死が禁止され、天皇陵の工期も7日以内に制限されたため、これ以降、古墳は姿を消すこととなりました。

飛鳥時代後期

天智天皇と天武天皇

皇太子だった中大兄皇子が即位したのは、孝明天皇の次の斉明天皇(元皇極天皇・中大兄皇子の母)が崩御した後、更に数年経ってからのこと。

この間に朝鮮半島で百済とともに唐&新羅と戦った白村江の戦いが起こり、中大兄皇子が直接指揮をとるも惨敗。
唐や新羅が攻めてくることを想定して日本の守りを固めようと、九州に防人を置くなど奔走したのち、中大兄皇子はようやく天智天皇として即位することになりました。

即位からたった4年で天智天皇が崩御すると、皇太子の地位を天智天皇の息子・大友皇子に譲って出家していたはずの皇弟・大海人皇子が、地方豪族を味方につけてクーデターを起こします。
この壬申の乱は古代日本最大の内乱と言われ、これに勝利した大海人皇子が天武天皇として即位することになりました。

大宝律令

天武天皇によって制定を命じられた「大宝律令」が完成したのは、天武天皇の死後、妻である持統天皇を経て、孫の文武天皇が即位した後(20年後)のこと。
これは罪や刑罰を定めた「」と、政治に関してのことを定めた「」、両方が揃った初めての律令です