薩摩の名君・島津斉彬① 生い立ちと家族関係

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
  • 薩摩藩・第11代藩主(外様大名)
  • 島津家・第28代当主
  • 1809年~1858年・50歳没
  • 幕末の四賢候の1人
  • 西郷隆盛・大久保利通らを見い出した名君

人物名鑑の第一弾は、2018年の大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』前半のキーパーソンの1人になるであろう、薩摩藩主・島津斉彬
彼の急死を知った西郷隆盛が後を追って自害しようとするほど心酔していた、幕末の超名君です。

「大名一番の御方」とまで言われた斉彬ですが、彼が藩主の座についたのは40代になってからのこと。
正妻の子で長男という文句のつけようがない立場でありながら、父親との確執から、なかなか藩主の座をゆずってもらえなかったのです。

それらの状況や斉彬の思想に大きく影響を与えたのがひいおじいちゃんの重豪(しげひで)という存在。
当時の薩摩藩の状況などと併せて、まずはひいおじいちゃんのことを中心に、斉彬の家族関係と生い立ちを書いていきたいと思います。

当時の薩摩藩と島津家の状況

ひいじいちゃん vs じいちゃん

島津家 家系図島津家家系図

島津斉彬は、1809年3月14日、第10代藩主・斉興(なりおき)と正妻・弥姫(いよひめ)の長男として、江戸の薩摩藩邸で生まれました。

斉彬が生まれたのは、すでに隠居していた斉彬のひいおじいちゃん・重豪(しげひで)と、当時の藩主だった斉彬のおじいちゃん・斉宣(なりのぶ)の親子間で、“禁止録崩れ”という事件が起きた直後。

この“禁止録崩れ”を簡単に説明すると、隠居した後も政治の実権を握る父親と、藩主として自分で政治をしたい息子の権力争い。
「薩摩藩を江戸や京のように文化的な藩にする!」
と言って湯水のごとくお金を使ったひいおじいちゃんと、節約派・保守派のおじいちゃんの争いでした。

最終的にはひいおじいちゃんが勝ち、おじいちゃんは隠居させられることになります。
そして次の藩主になったのが斉彬のパパ・斉興です。

この時すでに65歳になっていたひいおじいちゃん。
江戸に隠居屋敷を建てて引っ越してはいましたが、彼の家臣たちが藩の重要ポジションに残って仕切っていたので、引き続きひいおじいちゃんが実権をにぎっているようなものでした。

そんな頃に生まれたのが、嫡子(跡取りになる長男)である斉彬です。

薩摩藩のおさいふ事情

ちなみに斉彬のひいおじいちゃん・重豪がどのくらいお金を使ったかというと、薩摩藩に500万両という借金を作っちゃうくらい。
現在の金額に換算するのはなかなか難しいのですが、米の値段を基準に考えれば2500億円、お給料の額を基準に計算するとだいたい1兆円ほどになります。

当時の薩摩藩の1年間の収入はおおよそ15万両前後で、借金の利子が50万両以上ですから、完全に財政破綻してる状態。

というと、ひいおじいちゃんが救いようのない超バカ殿のようですが、実はそう言い切れない部分もあるんです。
なぜなら薩摩藩は、元々ものすごーくお金がかかる藩だったから。

幕府の「外様大名が力つけないように、お金いっぱい使わせとこう」という政策によって、自分の領地とは関係のない場所の公共工事を(自腹で)させられていましたし、参勤交代にもめちゃくちゃ大金がかかりました。
当時は大名の格や藩の石高……つまり藩や藩主のランクで参勤交代の規模が決められていたため、石高77万石の薩摩藩は、かなりの大行列を組んで鹿児島から江戸という長距離を移動しなくてはいけなかったのです。

そもそも薩摩は火山灰がつもった土壌のため稲作にむいておらず、77万石という石高の半分くらいしかお米が取れません。
なのに他の藩の何倍も武士がいて、彼らのお給料に年間収入の半分が費やされていました。(なんと人口の4割近くが武士でした)

ひいおじいちゃんの政策

島津重豪(ひいじいちゃん)島津重豪

ひいおじいちゃん個人がしたことはといえば、ひとことでいえば文化政策。
学問を広め、城下町をにぎやかにして、文化的に遅れてる薩摩藩をイケてる藩にしようとしたわけです。

  • 藩校をつくる
  • 武芸の稽古場をつくる
  • 天文学の研究所をつくる
  • 医学を学ぶ医学院をつくる
  • 娘を将軍家や幕府の有力者に嫁がせる
  • 外国の本や機械を買い集める
  • それまで禁止されていた芸者や遊女の入国・永住を許す
  • それまで禁止されていた芝居小屋や居酒屋の経営を許す
  • 側室たくさん(正室は早くに亡くなった)
  • 江戸に西洋風の隠居屋敷を建てて移り住む

前半は無駄遣いではないし、娘を将軍や幕府の有力者に嫁がせたのも、幕府内での権力や発言力を手に入れるため

「将軍の義父がケチくせえことやってたら天下の笑いものになるだろうが!」
と派手な生活を送って浪費したのは確かですが、その地位を利用して琉球経由の貿易量を増やしたりもしていますし、ただのバカ殿というわけではありませんでした。

まあ、藩がそんな状況なのに金使いまくってんじゃねーよ、というじいちゃんの怒りはごもっともですが……。

斉彬の生い立ちと交友関係

斉彬のバックボーン

そんなひいおじいちゃん・重豪は、斉彬のことをものすごーく可愛がりました。
ちょくちょく自分の屋敷に呼びよせて、当時の大名家にしては超珍しく、一緒にお風呂に入ることもあったといいます。

オランダ語や中国語を喋り、ローマ字を書けたというひいおじいちゃんの屋敷には、外国の書物や品物がたくさん。
そこへ小さいころから出入りして、学問や外国の話を聞かされていた斉彬が、そっち方面に興味をもつのは当然の流れでした。

更に斉彬のママもまた、当時の大名家では超異例の、乳母をつけずに自ら子育てをした人。
嫁入り道具として持ってきた中国の歴史書や儒教の経書を読みこなし、子供たちにも読み聞かせていたそうです。

そんなひいおじいちゃんとママの教育をバックボーンを持つ斉彬は、とっても聡明で視野の広い青年に成長していきました。

斉彬と蘭学

藩主時代、参勤交代の道中で長崎に立ち寄り、オランダ商館を訪ねてカピタン(商館長)とも親交をもっていたひいおじいちゃん。
歴代のカピタンたちとずっと手紙のやり取りをしていたほど親しかったといいます。

当時、カピタンは数年に一度江戸城へ拝礼(貿易させてもらっているお礼)にくる決まりになっており、その江戸滞在中にひいおじいちゃんはよくカピタンたちと面会していました。斉彬が生まれる前からのことです。

この会見の際、ひいおじいちゃんが何度も同席させていたのが、次男である中津藩主・奥平昌高(おくだいらまさたか)

中津藩(今の大分県)は前々藩主がひいおじいちゃんの蘭学つながりのお友達であり、その前から『解体新書』を翻訳した前野良沢(まえのりょうたく)が藩医だったりと、蘭学に対して大らかな藩風。
そんな影響もあって、いつからか昌高はひいおじいちゃんをしのぐほどの“蘭癖大名”になっていきました。
“フレデリック・ヘンドリック”というオランダ名と、オランダ語で詞を書けるほどの語学力を持ち、「藩主という地位だと外国人と好きなように交流できないから」という理由で隠居してしまうほどの筋金入りです

斉彬が18歳のころ、ひいおじいちゃんに連れられてシーボルト(商館付きの医者・植物学者)に面会した時も、もちろん昌高が同席しています。
この時にはすでに昌高には別ルートもあったらしく、ひいおじいちゃんたちと一緒に会談した後も、高名な蘭学者や家族と一緒に何度もカピタンたちの宿を訪ねて夜遅くまで語り合ったそうです。

こうした人たちと交流した経験から、斉彬はますます蘭学に興味をもつようになり、自らオランダ語を学んだり、蘭学者との親交も深めていったのでした

幕府と斉彬とパパの関係

島津斉興(パパ)島津斉興

将軍の義父であり、自らも徳川吉宗の孫を正妻にむかえていたひいおじいちゃんとは違い、パパ・斉興は幕府が好きではありませんでした。
なので、江戸に住んでいた斉彬が、なんだかんだとパパの代わりに江戸城へ登ることも多かったといいます。

その際の江戸城での交流に加え、ひいおじいちゃんのコネ、蘭学関係などからも、斉彬には次代を担う人物たちとのつながりができていきました。

若いころから「(外様大名の跡取りなので)老中にできないのが残念だ」と惜しまれていた斉彬。
中には「譜代大名の家へ養子に出して老中にするべきだ」という者までいたそうで、パパ以外の人たちからは大変その能力を買われていたことがわかります。

斉彬が37歳の時、それを裏付けるような出来事がありました。
老中首座・阿部正弘が、琉球に開港を求めてやって来る外国船の対策を、斉彬に指示したのです。

ちなみにこの時、パパも参勤交代で江戸に滞在しています。
にもかかわらず、薩摩藩の支配下にある琉球の外交対策を、藩主を飛びこえて直接斉彬に命じたのです
いくら次期藩主である世子とはいえ、これはありえないくらい異例のこと。
この件もまた、斉彬とパパが直接対決へ向かうきっかけにつながっていくのでした。

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薩摩の名君・島津斉彬② パパとの確執と薩摩藩の財政再建