薩摩の名君・島津斉彬③ “お由羅騒動”勃発

前話:薩摩の名君・島津斉彬② パパとの確執と薩摩藩の財政再建

ひいおじいちゃんの時代にふくらんだ借金も片付き、薩摩藩の財政は回復したものの、斉彬を藩主にしたくないパパとの確執は続いていました。

斉彬の年齢はもう40代。
斉彬派の面々にも焦りが見えてきます。
そしてついにパパとの直接対決ともいえる“お由羅騒動”が起こりました。

まだ下っ端のいち藩士でしかなかった西郷隆盛や大久保利通の身にも降りかかった“お由羅騒動”を、詳しく説明していきます。

とうとうパパとの対決へ

“お由羅騒動”

斉彬はたくさんの子供をつくりましたが、その多くが幼いころに亡くなっており、この頃まで無事に成長していたのは女の子だけ。
さらに実の弟も数年前に亡くなっています。
斉彬派の面々はこれを「お由羅の方が呪ったせいだ!」と考えました。

(真偽は定かではありませんが、お由羅の方が京都で呪いのための人形を作らせた、亡くなった次男が寝ていた部屋の床下から呪詛用の人形が見つかった、などという説もあります)

そして斉彬の次男が亡くなった翌年、健康だった四男までもが2歳で急死すると、斉彬派の怒りのボルテージはいよいよマックスに達します。
「お由羅や久光派の重臣たちを暗殺して、斉彬を藩主に!」という計画が持ち上がったのです。

しかしこれが直前になってあっさりとパパにバレ、斉彬派の中心人物だった3名が捕縛されて即切腹を命じられました。

事実関係の調査すらせずに「今すぐ腹切れ!」だったことから、パパ・斉興のブチ切れっぷりが伺えます。(もしくは策略だった可能性も……)

もちろん処罰がこの3名だけで終わるはずもなく、更にもう3名が切腹を命じられ、斉彬派の50名ほどが流刑や蟄居(自宅謹慎)などの処分を受けました。

西郷隆盛と大久保利通

ちなみに、この時に切腹させられた“更にもう3名”の中に、西郷隆盛の父が仕えていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が含まれています。
彼は隆盛にとって憧れのお兄さん的な存在だったと言われており、この件で隆盛の「斉彬を藩主に!」という気持ちはますます強くなりました。
そしてお由羅や久光のことを忌み嫌うようになったのです。

それから琉球関係のお仕事をしていた大久保利通の父親も、この件で島流しにされたうちの1人。
大久保利通本人も、クビ&謹慎というコンボを食らっています。

働き手2人が職を失った大久保家は、収入が途絶えて非常に苦労したそうで、利通もまた「斉彬を藩主に!」という思いを新たにしたのでした。

一発大逆転・斉彬藩主になる

将軍を動かした斉彬派の面々

これだけの大粛清ですから、斉彬が藩主になるのはもう不可能かと思われました。
ですが、パパの処分を免れた斉彬派の藩士たち数人が、決死の覚悟で脱藩に成功。福岡藩へ逃げこみます。

福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)は斉彬のひいおじいちゃんの息子。
ひいおじいちゃんが66歳の時の子で、斉彬よりも年下ですが続柄は大叔父にあたります。

彼も父である重豪の影響を大きく受けた“蘭癖大名”の1人で、斉彬とは兄弟のような間柄でした。
なので当然、彼も斉彬派です。

斉彬のパパから「逃げこんだヤツら、犯罪者だから引き渡して!」と言われますが「だが断る!」と拒否。
すぐに実弟の八戸藩主・南部信順(なんぶのぶゆき)と一緒に、同じく斉彬派だった老中首座・阿部正弘へ「どうにもならないんで手を貸してくださいな」と頼みに行ったのです。

先代将軍・家斉の義弟(正室の弟)でもある彼らと、老中首座の阿部さんが動いたことで、将軍から斉彬のパパへ茶器が送られることになりました。
「そろそろ引っ込んで、これで茶でも飲んでろ」という引退勧告です。

将軍から直々に言われてしまっては、さすがのパパも従うしかありません。
ようやく斉彬に藩主の座をゆずって、隠居することになったのでした。

パパから異母弟への密書

余談ですが、この直後にパパから久光へ送られた密書が残っていて、その中でパパが斉彬のことをけちょんけちょんにこき下ろしています。

「疑り深く、小賢しい」
「勇気が足りない」
「役に立たない物が好きなアホ」
「肝っ玉が小さい」
「騒ぎを好む」

など、さんざんな言いよう。

幕府の偉い人たちや他藩の藩主たちからの評価も高い実の息子をここまでこき下ろすのですから、パパがどれだけ斉彬を疎ましく思っていたか分かる気がします。

ちなみにこの時のパパは薩摩へ帰って政治にかかわる気満々だったようですが、もちろん斉彬に阻止されました。(隠居した元藩主は、江戸で暮らすのが通例でした)