もくじ
弥生時代の簡易年表
3000年前 | 日本最古の水田 |
紀元前660年 | 日本書紀から計算すると初代天皇の即位年 |
紀元前4世紀頃 | 大陸から青銅器・鉄器が伝わる |
紀元前2世紀頃 | この頃から再び気温が低下し寒冷化 |
紀元前1世紀頃 | 青銅器が国内で製造されるようになる |
紀元前後 | 倭(日本)の国は100余りのクニに分かれていた |
57年 | 倭の奴国王が後漢の光武帝より金印を授かる |
147~189年頃 | 倭国大乱(日本初の大規模な内戦) |
190年頃 | 邪馬台国の卑弥呼が倭国の女王となり争いがおさまる |
239年 | 卑弥呼が魏へ使いを送り「親魏倭王」の称号を賜る |
248年 | 卑弥呼が亡くなる |
1~3世紀頃 | 鉄器が国内で製造されるようになる |
2~3世紀頃 | この頃から古墳が作られるようになる |
弥生時代の人々の生活
稲作のはじまり
今から3000年ほど前の紀元前10世紀頃、大陸や半島から北九州へ本格的な稲作が伝わったと言われています。
縄文時代にもお米は作られていましたが、これは畑で栽培される陸稲というものがほとんど(一部地域では水たまりのような地形を利用して、水田も作られていた)で、本格的な水田での稲作はこの時代に始まりました。
3000年前の水田跡が発掘された菜畑遺跡では、水路や堰(せき)、木の杭や板で固められた畦畔(あぜ道)の跡が見つかっており、現在とあまり変わらない乾田での稲作が行われていたことがわかっています。
初めの頃は元から湿っている土地(湿田)での稲作も行われていましたが、紀元前4世紀頃までには本州の最北端・青森まで乾田での稲作が伝わっていきました。
弥生土器と高床式倉庫
縄文時代の頃は主に調理に使われていた土器ですが、この時代になると、貯蔵用のツボや料理を盛り付ける器(高坏・たかつき)、大きな甕(かめ)状のお墓としても使われるようになってきます。
焼き方が縄文時代の野焼き(普通にたき火で焼く方法)から、灰や土をかけて焼く覆い焼きに変わったことで、弥生土器は縄文土器よりも薄くて丈夫になりました。
また収穫した米などを保存しておく際に、湿気やネズミ・ミミズなどの被害を避けるため、高床式倉庫が作られるようになりました。(これはあくまで倉庫で、人々は縄文時代の頃と同じく竪穴式住居に住んでいました)
金属器(青銅器と鉄器)
稲作が伝わってから数百年後、紀元前4世紀頃になると、鉄器と青銅器がほぼ同時に大陸から入ってきます。
銅鐸や銅鏡、銅剣などの青銅器は主に宗教的な祭りごとに使われ、鉄器は主にクワやスキ、鎌など実用的な道具として使われていました。
青銅器は紀元前1世紀頃から国内で製造されるようになりましたが、鉄器は大陸から輸入したものを加工して使っていた期間が長く、国内での製造が始まったのは1~3世紀頃だと言われています。
ムラからクニへ
水田を作って稲作を行うために人手が必要になり、人々は大人数で集まって暮らすようになりました。
集落は縄文時代よりも大規模なムラになり、集団の中の役割分担として稲作やその他のことを仕切る人が現れて、ムラ内に上下関係が生まれたと考えられています。
また、米という保存のできる食べ物が生産できるようになったことで、それぞれのムラの間に貧富の差が生まれ、土地や食べ物などを巡っての争いが起きるようになりました。
弥生時代の遺跡からは矢じりが刺さったままの人骨や刺し傷・切り傷のついた人骨が多数見つかっており、また、防御面に力を入れた集落(高地性集落や環濠集落)が作られていたことから、この時代に戦があったことがわかっています。
そんな争いを繰り返すうち、戦に勝った方が負けた方を吸収したり、強いムラが小さなムラを支配したり、仲の良いムラどうしが集まったりして、だんだん集団の規模が大きくなり、クニができていきました。
そして今度はクニどうしでの争いが始まることになります。
中国の書物によれば、3世紀頃の日本はクニどうしが互いに攻め合い、長く争いが続いていたそうです。
邪馬台国と卑弥呼
魏志倭人伝とは
弥生時代の日本には文字がありませんでしたが、中国のいくつかの歴史書にこの時代の日本国内の情報が残されています。
この中で一番知られているのは、おそらく教科書にも出てくる『魏志倭人伝』ではないでしょうか。
その名称からは、日本のことについて書かれた1冊の書物のような印象を受けがちですが、これは3世紀に書かれた中国の歴史書『三国志』のうち、『魏書』第30巻の中の『烏丸鮮卑東夷伝倭人条』というほんの一部分でしかありません。
簡単に言うと、全65巻からなる『三国志』という歴史書の、ほんの数ページが『魏志倭人伝』と呼ばれているわけです。
『漢書』、『後漢書』など、他にも当時の日本について触れられているものがあり、これらがこの時代の日本を知る大きな手掛かりとなっています。
邪馬台国と卑弥呼について
『魏志倭人伝』によると、邪馬台国は、倭(当時の日本)にあったとされる国の1つで、30ほどの国を支配下においていました。
卑弥呼はその女王で、女王になった時から非常に高齢だったといいます。
「鬼道を事とし、よく衆を惑わす(鬼道を用いて民衆の支持を得ているというような意味だと思われる)」と書かれていることから、巫女、もしくは占い師やシャーマンのような女性だったのではないかと考えられています。
中国の歴史書には4世紀の日本に関する記述が全くないことと、書かれている文章の解釈の違いなどから、邪馬台国は近畿地方にあったという説と北九州にあったという説(他にも諸説)があり、同時に邪馬台国のその後についても、後のヤマト政権になった、滅ぼされて消滅したなど、今も論争が続いています。