薩摩の名君・島津斉彬② パパとの確執と薩摩藩の財政再建

前話:薩摩の名君・島津斉彬① 生い立ちと家族関係

ひいおじいちゃんの影響を受けて、聡明で視野の広い青年に成長した斉彬。
日本や琉球に開国をせまる外国船がやってくるようになり、幕府の偉い人たちや他藩の藩主たちは、海外の事情に明るい斉彬が藩主になるのを心待ちにしていました。

が、斉彬のパパは藩主の座をゆずる気配すらありません。
パパやその側近たちが藩主にしたかったのは斉彬の異母弟・久光
この時期の薩摩藩を取り巻く状況と、パパとの確執を詳しく説明していきます。

薩摩藩の財政改革と琉球事情

藩主の座をゆずらないパパ

ひいおじいちゃんが亡くなったのは斉彬が24歳の時。
斉彬のパパはもう40代になっていました。

この時代の大名家では、子供が元服すれば跡をつがせて隠居するのが普通だったので、そろそろ斉彬が藩主になってもおかしくない年齢です。
ひいおじいちゃんの代からずっと10代で藩主を継いでいますから、むしろ遅いくらいでした。

が、ようやく実権をにぎったパパは、藩主の座を降りる気ゼロ。

パパ・斉興

斉彬のやつ、じじいに超可愛がられてただけあって、色々影響うけすぎだろ。藩主にしたら学問だ外国の何とかだって金使いまくりそうだし、怖くて隠居できねえわー

という、まあ理解できなくもない理由もありましたが、そもそもパパは斉彬のことをあまり評価していなかったのです。
ずっと目の上のタンコブ的存在だったひいおじいちゃんに似ている斉彬を、嫌っていたと言ってもいいでしょう。

調所さんの財政改革

斉彬のパパは、ひいおじいちゃんが晩年に財政再建をまかせていた調所広郷(ずしょひろさと)を出世させて、そのまま再建をまかせます。
調所さんもそれに応えてさまざまな改革を行いました。

おーい、薩摩藩にお金貸してる人ーーー!
新しい借用書渡すから、古いヤツ持って集合ー!

調所

はい、これ新しい借用書ね。利子はなしで、250年ローンの分割払い。
え、困る? こっちもこれが限界なんだわ。返さないって言ってるわけじゃねーんだからゴタゴタぬかすなや!

調所

という感じで、ついにはなんと500万両もあった借金をほぼ踏み倒すことに成功。更に250万両という貯金まで作っちゃいました。
(※一応細々と返してはいましたが、廃藩置県で薩摩藩がなくなった時に返済もストップ。最終的に踏み倒しています)

この“借金ふみたおし”のインパクトが強すぎて忘れられがちですが、超有能な調所さんは、農業・軍事・公共工事など色んな改革も行いました。
そのほとんどが節約・倹約方向の改革です。
これらの強引な改革に、元々生活の苦しかった武士たちの不満がどんどんたまっていきました。

薩摩藩と琉球の関係

正妻の息子で長男、しかもとっても優秀な世子がいるのに、ずっと跡を継がせないというおかしな状況が十数年も続き、斉彬は30代後半という年齢を迎えます。

この頃は、おとなり清(中国)がアヘン戦争でイギリスに負け、さんざんなことになっていた時期。
鎖国中の日本や琉球にも、貿易や開港を求める外国勢がちょくちょくやって来るようになっていました。

当時の琉球は薩摩藩の支配下にありましたが、独立国として清とも冊封関係を結んでいるという、ちょっと特殊な状況。
“冊封”というのは、琉球は清の臣下になり、清皇帝が琉球国王に“琉球の統治”を認めるという関係。
つまり、清とは主従関係であり、同時に薩摩藩の半属国でもあるという、不思議なポジションだったのです

なぜこんなことになったかというと、琉球が“清の冊封国”のままでいる方が、薩摩藩にとって都合が良かったから。

清と冊封関係にあった琉球は、清に(その前の明の時代からずっと)“朝貢”を行っていました。
清に貢ぎ物を持っていって、その何倍ものお土産をもらい、ついでに同行した船の積み荷まで売りはらえるというボロ儲けな感じのシステムです。

清は日本の鎖国と同じような海禁政策をとっていて、この朝貢というシステムでしか貿易を許していませんでした。
なので、薩摩藩は琉球を侵攻した時に完全な属国にせず、独立国としてこの“朝貢貿易”を続けさせることにしたのです

幕府もこの状況を薄々感づいてはいましたが、薩摩藩はあくまで「清と貿易をしているのは独立国の琉球王国であり、薩摩藩ではない」という建前
琉球が“薩摩藩の属国”ではなく“清の臣下の独立国”である以上、幕府は直接琉球に手を出すことはできませんし、その貿易の実態もなかなかつかめずにいました。

幕府へは貿易の一部分のみを報告して許可をもらっていましたが、実際はその何倍もの量の貿易を行っており、パパの側近・調所さんの財政改革でもこの琉球の密貿易が大きな利益を上げていたのです。

パパと斉彬の確執

パパとの間に生まれた火種

そんな状況の中、琉球にフランスの艦隊がやってきて開国を求めます
薩摩藩はすぐに幕府に相談しましたが、日本の伝家の宝刀“結論の先送り”でなかなか返事をもらえません。
そうこうしているうちに再びフランスの艦隊が戻ってきてしまいました。

この報告を受け、家老・調所さんが江戸へ急行。
幕府の偉い人たちと話し合いが持たれました。

結論としては「琉球って日本じゃないし、支配してる薩摩藩に任せたら良くね?」ということになったのですが、老中首座・阿部正弘からその対応を指示されたのは、藩主であるパパではなく斉彬

外国の情勢に詳しい斉彬にこの指示が出されたのは、以前から斉彬と付き合いがあった超スーパー攘夷派・徳川斉昭(とくがわなりあき)や老中首座になったばかりの阿部さんの意向だったようです。

斉彬は彼らと琉球の方針について相談を重ねました。
開国を強く拒否すれば戦争になるかもしれないし、そうなれば軍船を持っていない琉球・薩摩側に勝ち目はありません。
協議の結果、アヘンの輸入やキリスト教の布教は禁止した上で、貿易を受け入れても良いという方針に決まりました。

ただしその相手はフランスのみ。
インドや清を武力でねじ伏せたイギリスは、危険すぎるのでアウトです。
もちろんイギリスはキレるでしょうが、貿易をひとりじめできるフランスが琉球の味方につき、他国の抑止力なるだろうという予想でした。

この内容に将軍からの許可が下りると、斉彬はすぐに薩摩藩へ向かいます。
斉彬の薩摩到着前にフランス艦隊が琉球を去っていたため、結局開国することはありませんでしたが、この件が斉彬とパパの間に新たな火種を生むことになりました。

メンツを潰されたパパ

藩主である自分を差しおいて、斉彬に直接幕府からの指示が出された――。
身分や形式を重んじる武士の社会では本来あり得ないことであり、メンツを潰されたパパは当然ブチ切れ。

参勤交代で江戸にいたパパはすぐに幕府へ帰国願いを出し、斉彬の後を追うように薩摩藩へ戻ります。
薩摩藩に着いたパパが最初にしたのは

パパ・斉興

あとは俺がやるからお前いらねーわ。
今の状況詳しく報告して、さっさと江戸に帰んな

と、斉彬を追い出すこと。

そしてその後、斉彬の異母弟・久光にその役を任せて藩主の名代的な権限を与えてしまいました。
斉彬の存在を無視して、久光を跡継ぎのように扱ったわけです。

久光は、パパが超溺愛するお由羅の方という側室の息子。
パパは久光を次の藩主にしたいと思っていたのです。
パパの側近として家老にまでのし上がっていた調所さんも、もちろん久光派でした。

動き出した斉彬派

調所さんに不満を持っていた若手藩士たちと斉彬は、ここでついに行動に出ることになります。
琉球での密貿易を、幕府に密告したのです。

調所さんの財政改革の中心は、この琉球を通した貿易と、奄美などの砂糖の専売。
藩主であるパパと家老の調所さんにその責任をとらせて、失脚させようという作戦でした。

この密告相手は老中首座・阿部正弘。
「斉彬を早く藩主に」と望んでいる斉彬派の1人です。(ひとつ間違えば島津家ごと取り潰しになりかねない事態なので、おそらく阿部さんと斉彬は最初から手を組んでいたと思われます)
これは一見うまくいくかに思えました。しかし……

阿部さんが調所さんを取り調べた直後に、なんと調所さんが急死。
パパ・斉興に責任がおよばないように、1人で罪をかぶり、毒を飲んで自害したと言われています。

一番のターゲットだったパパはというと「密貿易なんて知らね」としらを切り、藩主の座に居座りました。しかも

パパ・斉興

斉彬のヤロウ、小賢しい真似しくさって! これで斉彬を藩主にしたら調所が浮かばれねえ……。調所の死を無駄にしないためにも、次の藩主は絶対に久光!

と、ますます斉彬への敵対心を強くしていたのでした。

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薩摩の名君・島津斉彬③ “お由羅騒動”勃発