黒船来航④ その時、彼らは(海上・オランダ・佐久間象山)

その時、海の上では

ペリーさんが浦賀で野次馬の小舟に囲まれていた頃、海の上でまだ見ぬ日本に思いをはせる1人の紳士がいました。
ロシア皇帝・ニコライ1世の命で日本へ向かっていたプチャーチン中将です。

プチャーチンプチャーチン

彼は香港あたりで、ペリー率いるアメリカの艦隊が先に日本へ到着したことを知ります。
ペリーさんより早くロシアを出発したにもかかわらず、蒸気船の手配や老朽船の座礁などにより追い抜かれてしまったのでした。

のちに日本人と深い信頼関係を結び、亡くなった時に遺産をのこすほどの親日家だったプチャーチンさん。
そんな彼が日本に到着するのは、まだもう少し先のお話です。

その時、オランダは

幕府が「ペリー提督率いるアメリカの艦隊が開国を迫りにくる」という具体的な情報を知ったのは、前年のオランダ政府による別段風説書から。
けれど「いずれそうなるだろう」というのは、もっと前から予想されていたことでした。

オランダ国王からの手紙

8年前の夏――
オランダ国王から将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)へ1通の手紙が届きました。

それは、簡単にまとめると「このまま鎖国してると日本が攻撃されちゃいそうで心配だから、ちょっとだけ国ひらいてみたらどうかな?」っていう内容。
それから「うちの国民がいつもお世話になってるお礼」だというお土産もたくさん入っています。

これに対して、日本は老中たちの連名でお返事を書きました。

オランダ政府のみなさんへ

お手紙ありがとうー。
国王殿下の親切な気持ちにはとーーーーっても感謝してるけど、うちの将軍からお返事は書けないんです。
お返事しちゃったら国交になっちゃうでしょ? 昔からの法律でそれはダメって決まってて変えられないの。
だから国もひらかないし、お手紙もらっても次はお返事できません。
失礼だけど、法律だからホントごめん。悪く取らないでね。
国王殿下にもそう伝えてください。

P.S.お土産も本当は受け取っちゃダメなんだけど、それだとあまりにも失礼すぎるから、ありがたくいただくね。
お礼に日本からもお土産送ります

江戸幕府老中のみんなより

ずーっと前から貿易してるオランダが相手でもこの頑なな対応。
あくまで国と国の正式なやり取りは拒むという、超ガンコな日本なのでした。

オランダ国王からの提案

幕府が老中たちの名前でお返事を書いてから7年の間、オランダが再び親書を送ってくることはありませんでした。

でも黒船来航の前年、ペリー率いる大艦隊が日本へ行くという情報が入ると、オランダの偉い人たちは焦ります。
日本があの頑なさで拒否れば、アメリカと戦争になってしまうかもしれないと思ったんです。

戦争になった場合、日本がアメリカに勝てるとは思えないし、負けてしまえば貿易どころではなくなってしまう。
もしも戦争にならなかったとしても、アメリカがステキな条件で条約を結ぶことになったら、それはそれでずーっと日本をひとりじめしてきたオランダとしては面白くありません。

そこでオランダは考えました。「オランダが先に条約結んじゃえばよくね?」と。
国王の命令でつくられた日蘭条約の草案が、すぐに長崎のカピタンに送られました。

日本の偉い人へ

「国ひらかなきゃ戦争!」ってヤツらも出てきそうだし、そろそろ鎖国続けんのって厳しいと思うんだ。
だから日本のことをよーく知ってるオランダが、日本の法律とかを色々考慮して、ギリギリいけるかなーっていうラインで条約の草案作ってみたよ
オランダと先に条約結んで、それを基準に他の国とも交渉したらどうかな?

オランダの王様より

そんな覚書のついた条約の草案を受け取ったカピタンは、さっそく長崎奉行のところへ交渉にいきます
でも、良くいえば慎重、悪くいえば問題をズルズル先送りにするクセがある日本――。
この時もすぐに交渉が始まることはありませんでした。

長崎奉行「ちょ、国ひらかなきゃ戦争って何それ? マジで? 具体的にどうなってんのか、もっとすんごい詳しく調べてきてくんない? あと条約とかよくわかんないから、そっちも超詳しく説明してくれると助かるー。交渉はその後ねー」

こうしてオランダが日本との交渉に入れずにいるうちに、浦賀にペリーさん率いる黒船軍団が到着してしまったのでした。

その時、佐久間象山は

この幕末という時代に活躍した男たちにものすごーく影響を与えたのが、佐久間象山(さくましょうざん)という天才学者。

佐久間象山佐久間象山

象山の超フリーダムな天才エピソードはまた別にまとめたいと思いますが、ここでは幕末の流れにかかわる部分を少しだけ。

生まれるのが早すぎた男

黒船がやってくる11年ほど前のこと。
象山のボスである松代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)が老中になり、海防掛(今の外務省+防衛省的なポジション)に任命されると、顧問として取りたててもらった象山はボスの命令で当時の海外事情を調べはじめます。

調べれば調べるほど「このままじゃ日本ヤバくね?」と思った象山は、『海防八策』というものをボスに提出。
その内容は、簡単にまとめるとこんな感じでした。

「日本も軍艦そろえて海軍作んなきゃ。あと、銅は貿易じゃなくて西洋式の大砲作るのに使うべきだろ。今すぐそうしないと、外国が攻めてきて日本終わるよ?」

この頃は清(中国)がアヘン戦争でイギリスに負けた直後。
幕府も多少の危機感はあったようですが、まだまだ対岸の火事でしかありません。
結局『海防八策』が幕府の方針に取り入れられることはありませんでした。
残念なことに、時代がまだ象山に追いついていなかったのです。

洋学の第一人者へ

「俺は絶対正しいはずなのに!」と思った象山は「よーし、もっと研究しちゃうぞー」と、まずは西洋の本を買うことにしました。もちろん原書です。
現在の価格で数百万円もする本を、周りの反対を押し切って藩のお金で買っちゃったんです

そしてこの本を自分で読むために、象山はオランダ語を勉強しはじめます。
とにかく洋書を読みあさり、そこに書かれていることをどんどん試していきました。

「絶対に大砲をつくる!」と決心していた象山は、5年ほど研究した結果、ついに西洋式の大砲の鋳造に成功
発射実験ではその大砲の弾が2キロも飛んだといいます。
余談ですが、落ちた先が幕府の直轄地で、めっちゃ怒られ、解決に何年もかかったらしいです。

大砲をつくるという目標を達成した象山は、江戸に「五月塾」をひらきます。
「秘伝とか下積みなんてどうでもいいだろ。俺が知ってることは全部教えたる!」という、この頃にしてはめっちゃ画期的な考えの象山。
そんな彼のもとに、のちに時代を動かすことになる人たちが次々と集まってきたのです。

勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰。東大の初代総理・加藤弘之や、米百俵で有名な小林虎三郎なんかも象山の教え子でした。

そして黒船がやってきた

ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀へやって来たのは、象山が五月塾をひらいてから2年後のことでした。
翌4日の早朝に黒船来航を知った象山はすぐに松代藩邸へ走り、2人の足軽をつれて浦賀へ向かいます。

浦賀に着き、山の上から望遠鏡で黒船を見つめる象山――
彼が11年前に恐れていたことが、目の前で起こっていました。

後から追いかけてきた吉田松陰や他の塾生たちも合流し、彼らは象山の泊まっていた宿で日本の未来について語り合ったといいます。
そしてこの出来事は、のちに幕末・明治のビッグネームたちの師となる吉田松陰の運命を大きく変えたのでした

続きはこちら

黒船来航⑤ 黒船軍団のジャイアニズム【黒船来航2日目】