古墳時代・ざっくりまとめ

古墳時代の簡易年表

2~3世紀頃この頃から古墳が作られるようになる
3世紀後半~4世紀頃ヤマト王権の誕生
391年倭国が高句麗へ出兵
5世紀頃倭の五王が朝貢
5世紀頃渡来人により漢字・儒教須恵器・養蚕などが伝わる
6世紀半ば頃仏教が伝わる
587年蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
592年推古天皇が即位
593年聖徳太子が摂政・皇太子になる

空白の4世紀と中国・朝鮮半島の情勢

空白の4世紀とは

日本の歴史が記録に残されるようになったのは、大陸から渡ってきた渡来人により漢字が伝わってからのこと。
この時代より前、倭国と呼ばれていた頃の日本の歴史は、中国の歴史書などの文献資料によるものです。

ですが、この古墳時代の初期は空白の4世紀と呼ばれていて、当時の日本に関する記録は何も残っていません。
これはおそらくこの頃に中国各地で争いが起こったためで、何度も王朝が変わったことで行き来が途絶えたか、他国のことを文献に記す余裕がなかったためだと思われます。

この頃の中国

弥生時代終盤の中国は、魏・呉・蜀がしのぎを削る三国時代でした。
卑弥呼が遣いを送っていたのは「」。
この魏が呉を滅ぼしたのち、3世紀半ばにクーデターが起こり、新しく王朝が開かれます
のちに蜀も倒して中国大陸を統一したでしたが、次々と内乱が起こり、4世紀の初めには北方の異民族に滅ぼされることとなりました。

この後の中国北部ではたくさんの異民族がそれぞれの国を建て、南部でも争いが続くことに。
中国の歴史書に再び「倭国」が登場するのは、5世紀に入ってからのことになります。

この頃の朝鮮半島

朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国が争っていました。
「倭国」と関係が深かったのはこのうちの百済と、朝鮮半島南部にあった伽耶という小国で、4世紀後半頃には「倭国」が朝鮮半島に派兵して、百済と共に高句麗と戦ったようです。
高句麗が建てた『広開土王碑』という石碑には、「倭が百済や新羅を属国にしていた」と書かれており、空白の4世紀を知る数少ない手掛かりのひとつとなっています。

ヤマト王権

ヤマト王権のはじまり

日本の歴史が文献に残っていない空白の4世紀に、大和地方(現在の奈良県)からその勢力を広げていったのがヤマト王権

このヤマト王権のはじまりについては、邪馬台国がヤマト王権になったという説や、ヤマト王権が邪馬台国を滅ぼしたという説など様々な説がありますが、確かなことはわかっておらず、邪馬台国の所在地と同じく今も論争が続いています。

ヤマト王権と前方後円墳

弥生時代の終わりごろから円墳・方墳などの古墳が作られていましたが、この時代になると急に前方後円墳が全国へ広がっていきました。

各地で見つかっている古墳の中で、大きなものはほぼ全て前方後円墳。
のちの天皇であるヤマト王権の大王のお墓もこの形です。
これに加え、地方により古墳の形や副葬品の特徴が違うため、前方後円墳=ヤマト王権の関係者のものだと考えられています。

「前方後円墳が伝わる=ヤマト王権の支配下に入る」という図式が成立するならば、ヤマト王権は4~5世紀にかけての間に九州から関東地方までを支配したと考えていいでしょう。

また、2017年には前方後円墳の原型とみられる150年頃(弥生時代末期)の卵型古墳が見つかっており、この時点で、ヤマト王権に繋がる勢力が古墳を作れるだけの力を持っていたと思われます。

古墳と人々の生活

古墳のつくりと副葬品・埴輪(はにわ)

古墳には内部に石室があり、そこに死者を納めた棺を埋葬するような作りになっています。
石室には、大きく分けると竪穴式横穴式の2種類があり、竪穴式の石室は、造った古墳の上から穴を掘って棺を入れ、埋め戻したもの。主にこの時代の前半に作られました。
横穴式のものは、棺を置く部屋とそこへの通路を作って、その上に墳丘を作ったもの。古墳時代後半になるとこちらが主流になります。

石室には、棺と一緒にさまざまな副葬品がおさめられました。
副葬品は、初めの頃は銅鏡銅剣が多く見られましたが、古墳時代後半になると鉄製の武具や馬具、農具などもおさめられ、また金や銀など希少で高価な副葬品も見られるようになっていきます。

そして古墳の上や周りに並べられたのが埴輪(はにわ)。
初期のころは円筒形やツボ形の円筒埴輪が主でしたが、やがて、家・武器防具・動物・人間などの形をした形象埴輪が作られるようになっていきます。
6世紀頃になると大和地方周辺では埴輪はあまり見られなくなり、6世紀終わり頃には前方後円墳とともに姿を消してしまいました

古墳時代の人々の生活

豪族たちは周りを掘りや濠で囲った居館に住んでいましたが、民衆は竪穴式住居に住み、集落を作って暮らしていました。
この時代に新しく日本へ入ってきたのは、弥生土器より更に丈夫な須恵器や、かまどなど。大陸からやってきた渡来人などから伝わったと言われています。

まだ科学のないこの時代、人々はとても信心深く、豊作を祈る「祈年祭(としごいのまつり)」と、その年の収穫を神に感謝する「新嘗祭(にいなめのまつり)」は重要なイベントでした。
罪や穢れを払う「禊(みそぎ)」や「祓(はらい)」という風習もあり、神を祀った神社が作られるようになったのも、弥生時代後半~古墳時代のことだと言われています。