縄文時代・ざっくりまとめ

縄文時代の簡易年表

20,000~15,000年前ナウマンゾウやマンモスなどの大型獣が日本から姿を消す
16,500年前日本最古の土器
15,000年前間氷期が始まり温暖化
11,000年前再び寒冷化(ヤンガードリアス期)
10,000年前氷河期が完全に終わり、日本が大陸から切り離される
7,300年前鹿児島南方沖の海底火山が大噴火
7,000年前この頃からヒプシサーマルと呼ばれる温暖な気候に
6,000年前縄文海進が起こる
6,000年前日本最古の稲作(水田ではなく畑で栽培される陸稲)
4,000年前再び寒冷化、人口減
3,200年前アイスランドで大噴火、世界的に更に寒冷化が進む
3,000年前日本最古の水田→弥生時代へ

縄文時代の日本

環境と地形の変化

氷河期の最も寒い時期は終わったものの、縄文時代の前半は温暖化と寒冷化をくりかえす厳しい気候でした。
ようやく氷河期(最終氷期)が終わったのは1万年前頃。氷が溶けて海面が上がったことで日本は大陸から切り離され、ほぼ今の形になりました。

その後は本格的に暖かくなり、それまでは寒さに強い針葉樹しか生えていなかった地域にも木の実のなる広葉樹の森ができました。
7千年前頃からは更に温暖化して、今よりも海面が5メートルほど高くなったと言われています。(これを縄文海進と呼びます)
環境の変化についていけなかった大型の動物たちは早々に日本から姿を消し、それによって人々の生活も変わっていくことになりました。

縄文時代の人々の生活

食生活と道具の変化

それまでメインだった大型の動物がいなくなって、狩りの対象が小型の素早い動物にかわると、それらを獲るために弓などの新しい武器が生まれました。この頃に使われていたのは、主に石を磨いて作る磨製石器
また、狩りのパートナーとして犬を飼っていたこともわかっています。

海が内陸部まで入り込み、海に出やすくなったことで、貝や魚もこの時代の人々の主な食料になりました。
釣りはもちろんのこと、船を作って沖に出たり潜ってモリで刺したりして魚を獲りました。なんと、マグロやカツオ、更にはフグ(毒の抜き方も知っていたそうです)まで食べていたといいます。
海のない地域でも、川でコイや鮭、マスなどを獲っていたらしく、内陸部の遺跡からも魚の骨が見つかっています。

山や森では、木の実や山菜がたくさん採れるようになりました。他にもキノコやヤマイモなどの食料も手に入るようになり、人々の食生活はぐんと楽になったと思われます。

食生活が変わったことで道具も変わり、人々は木の実の灰汁抜きや保存のために土器を作るようになりました。この頃の土器は、縄の模様があることから縄文土器と呼ばれ、魚などの調理にも使われていたようです。

住居と生活の変化

食生活が豊かになり、獲物を求めて移動する必要がなくなったため、人々は家を作って定住するようになりました。
この時代の家は、地面を掘って柱を建て、草で屋根を作った竪穴式住居で、遺跡で見つかる貝塚は集落のゴミ捨て場だったところです。

すぐにお引越しなんてことがなくなったので、家の近くで食料になるものを育てる人たちも現れました。栗の木のほか、緑豆やシソ、ヒョウタン、縄文時代後半になると米や雑穀なんかも栽培されていたことが分かっています。
また、果実酒を作っていたと思われる形跡も残っており、縄文人たちは私たちのイメージよりもずっと豊かな生活をしていたと言えるでしょう。

この頃には、日本古来の八百万の神という宗教観にもつながるアミニズム(「全てのものの中に霊が宿っている」という自然崇拝)への信仰がありました。それと関係するものかどうかはわかっていませんが、この時代の遺跡からは土偶や石棒もたくさん見つかっています。

縄文時代の交易

この時代の人々は、既に日本各地を行き来して物々交換的な交易をしていたようで、限られた地域でしか採れなかったり、含まれる成分から産地を特定できる黒曜石翡翠(ひすい)、サヌカイトといった石が、遠く離れた地域の遺跡からたくさん見つかっています。

例えば、新潟の姫川産である翡翠は、北海道から沖縄までの日本各地の他、朝鮮半島など海を越えた大陸の遺跡からも出土しているのです。
産地の姫川では大規模な工房の跡も見つかっており、これらのことから、当時の縄文人たちは広い交易範囲を持っていたと考えられています。

縄文人の文化

この時代の人々の文化は、その一般的なイメージよりもずっと進んだものでした。
彼らは動物の骨に直径0.5mmの穴を開けて縫い針を作り、その針で衣服を縫いました。
翡翠や琥珀、貝殻や骨などで簪、耳飾り、ネックレス、腕輪、アンクレットなどの装飾品を作り、身に纏いました。
身体や顔には入れ墨を入れて化粧を施し、栽培した漆を使って食器や入れ物、櫛などの装飾品を美しく加工しました。

また、東日本より北の地域では、土につけて焼いた子供の手形や足型も残されています。北海道の一部地域では大人の墓の中からこれらが見つかることから、亡くなった子供を偲んだものではないかと考えられているそうです。

化粧をして装飾品で身を飾り、亡くなった子を偲ぶ。
少なくとも、ひと昔前の教科書に書かれていたような“原始人”的なイメージとはかけ離れた文化を、縄文人たちは持っていたと言えるでしょう。