黒船来航③ その時、彼らは(幕府・長崎・薩摩)

番外編:その時彼らは……

嘉永6年6月3日――
黒船がやってきて、浦賀の住人たちが黒船フィーバーにわき、浦賀奉行所の面々がてんやわんやしていたその夜。
「外国の蒸気船が来たぞー」という知らせが全国各地へ向かってかけめぐっていました。

その時、浦賀以外の場所ではどんなことが起きていたのでしょうか。
黒船来航というメインイベントの影で動いていた者たちのお話です。

その時、幕府は

黒船来航の第一報

6月3日の昼頃、「超デカい船が4隻、こっちに向かってきてる! しかも煙吐いてる!」という漁師たちからの目撃情報が、三崎を警備していた役人さん経由で浦賀へ届きました。
浦賀沖に黒船が姿を現す前のことです。
奉行・戸田氏英はすぐに幕府へ「黒船が4隻現れたぞー」と早船を出しました。

この知らせは夜10時頃には江戸へ到着して、夜のうちに幕府のナンバーツー、老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)の元に届きます。
深夜でしたが、すぐに幕府の偉い人たちが集まり会議が開かれました。

幕府の人たちの反応

なんだよ、やっぱり来たのかよ……
幕府の人たちの反応は、おおむねそんな感じでした。

前年にオランダのカピタン(長崎の商館長)から
アメリカの船が9隻くらい来るらしいよ。蒸気船も来るよ。ヤツらが日本に向かって出発するのは、今年の4月かもうちょい後だってさ」
と報告を受けていたからです。

知ってたんならもっとしっかり準備しとけよ、この無能が! と罵りたくなるところですが、実は幕府、多少の準備はしてたんです。

オランダからの報告を受けて「来るなら浦賀か長崎だろう」と思った幕府は、江戸湾の海岸に警備の人たちをたくさん置きました。
でもいつまでたっても来る気配がないので、5月末で通常の警備に戻したばっかりだったのです

幕府の人たちの対応

そんな間の悪い幕府でしたが、この時はまだ少し楽観的。
「とりあえず長崎に行ってもらって、のらりくらりとはぐらかして帰ってもらえるようにがんばろう」
という方針です。なので特に大きな動きはありません。

ニセ副奉行となって黒船に乗りこんだ中島くんからの報告が届くと
え、今回そんな強気なのかよ……
とようやく危機感が芽生えますが
まあ……現場がどうにかしてくれんじゃね? いや、してくれるに決まってる!
という期待と願望が、まだ勝っていました。

その時、長崎では

風説書(ふうせつがき)

長崎は、言わずと知れたオランダや清(中国)との貿易の窓口。
幕府はその二か国と「貿易するから、そのかわり世界の情報を詳しく教えてちょーだいな」っていう約束をしていました。
その報告書が“風説書(ふうせつがき)”と呼ばれるものです。

中国からは“唐風説書”、オランダからはカピタンの話をまとめた“オランダ風説書”の他に、オランダ政府が書いた“別段風説書”という詳しい報告書も毎年もらえることになっていました。
黒船が来るぞーという情報は、この“別段風説書”に書かれていたものでした。

これらの風説書は当然長崎に届きます。
それを日本人の通詞が日本語に翻訳して、長崎奉行から幕府へと送られていました。
つまり、長崎の通詞たちは、日本に入ってくる世界の情報を幕府よりも先に知っていたのです

そこで出島に出張所を置いていた各藩は、その情報をいちはやく手に入れるため、通詞たちにお金を払って囲いこんでいました。(現代だと問題になるところですが、当時はほぼ黙認されてたそうです)

長崎の警備

そんなわけで、長崎の警備を任されていた佐賀藩と福岡藩はもちろん、その周辺の藩もアメリカの艦隊がやってくることを知っていました。
前年の風説書には、指揮官の名前や各船の大きさまでしっかり書かれていたからです。(警備役の2藩には、幕府からも報告があったようです)

対外国の窓口として、全国の港から長崎に回されてくる外国船の相手をしてきた長崎奉行所の役人さんたちも、毎回その警備をしてきた佐賀藩や福岡藩も、「今回は超ヤバいかも」という危機感をもっていました。
なので浦賀に黒船が来た時にはすでに警戒態勢をとっていて、黒船来航の知らせが届いた時も慌てることはなかったといいます。

超ハイテク集団・佐賀藩

そんなデキる男たちが集まる長崎周辺で、ひときわ輝きを放つ男がいました。佐賀藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)です。

鍋島直正鍋島直正

長崎にやって来る外国船を見て「今の日本の船や大砲じゃ、どう考えても勝てねーわ」と気づいてしまった鍋島さん。
とりあえず幕府に「大砲とか船とか買ってよー」とおねだりしてみましたが、あっさり断られてしまいます。

そこで彼は考えたのです。
買えねえなら自分で作れば良くね?」と。
とりあえず一番欲しいのは、今までの日本の鋳造(鉄を溶かして固める)技術では作れない大型の西洋式の大砲でした。
日本の青銅製の大砲では飛距離が足りず、もし外国船に沖から砲撃されても反撃できないからです。

またまた彼は考えました。
今ある鋳造所で作れねえなら、外国式の鋳造所も建てちゃえば良くね?」と。
幸い長崎の警備をしてるのでオランダからの情報は簡単に手に入ります。
こうしてオランダの書物を参考に、日本初の反射炉が造られました。
ペリーさんがやってくる3年前、1850年のことでした。

「自分で作れば良くね?」から反射炉完成までたった2年。
そこから大砲の製造をはじめ、1年後には実用できるものが完成。
2年後には長崎周辺に鉄製大砲50門をそなえた台場を作りあげました

まだまだ満足しない鍋島さんは、次に“精煉方(せいれんかた)”という最先端技術の研究所を開設して、蒸気機関の研究もはじめちゃいます。
これも黒船が日本にやってくる前のことでした。

この時点で鉄製の大砲を作ることができたのは佐賀藩だけ。
そんなハイテク集団・佐賀藩が、この時長崎を警備していたのです。

その時、薩摩では

薩摩藩主・島津斉彬

同じころ、長崎から少し離れた九州の南方にも「自分で作ればよくね?」を実践しようとしている男がいました。
幕末の名君といわれる薩摩藩主、島津斉彬(しまづなりあきら)です。

島津斉彬島津斉彬

斉彬は、ひいおじいちゃんの重豪(しげひで)から、ものすごーく可愛がられて育ちました。
このひいおじいちゃん、実はオランダ語を喋れたり、ローマ字を書けたりするくらいの洋学好き。
そして藩の人たちの教育にもとっても力を入れていました。

彼は学校や研究所を建てまくり、農民たちにも解放した太っ腹な藩主でしたが、やはり太っ腹なことにはお金がかかります。
ひいおじいちゃんが藩主のころに、薩摩藩は500万両(今の数千億円)という笑えない額の借金をつくってしまったんです。

そんなひいおじいちゃんの影響で洋学に興味をもった斉彬は、聡明で視野の広い青年に育ちます。
が、斉彬のパパや側近の人たちは
「斉彬が藩主になったら、ひいじいちゃんみたいに藩のお金使いまくるんじゃね?」
と心配して、なかなか藩主の地位をゆずろうとしませんでした。

異母弟との跡目争いの末、斉彬がようやく藩主になれたのは40歳を過ぎてから。ペリーさんがやってくる2年前のことでした。

いとこからの贈りもの

ひいじいちゃんと一緒にシーボルト(ドイツ人のお医者さん)に会ったり、幕府や他の藩の偉い人たちとも仲良くしていた斉彬は、若いころから「このままじゃ日本ヤバいわー」という危機感をもっていました。

そのため、斉彬は藩主になるとすぐに長年あたためていた“集成館事業”を実行にうつします。
その内容は、まさに「自分で作ればよくね?」のてんこもり。
鉄・大砲・軍艦といった武器弾薬の製造所のほか、ガラスやガス灯の工場、洋式の製塩・写真・蒸気機関などの研究所まで、色んな産業施設をぜーんぶ1ヶ所に集めて作ってしまおうというのです。

そんな斉彬のもとへ、ある人物からステキな贈りものが届きました。
鉄製の大砲を作るためには必要不可欠な反射炉の設計図です。
送り主は「自分で作ればよくね?」のパイオニア、佐賀藩主・鍋島正直。
実はこの2人、母方のいとこどうしという間柄だったのでした。

薩摩藩の反射炉は何度も失敗をくりかえしますが、佐賀藩の助けもあって5年後に無事完成。
斉彬と直正は、この後もお互いを訪ねたり手紙を送りあったりと交流を続けながら、日本の産業革命の最先端をつっぱしっていくのです

老中首座・阿部正弘との関係

斉彬が藩主になるために力を貸してくれたのは、斉彬を慕う他藩の藩主たちと、幕府のナンバーツー・阿部正弘でした。
彼らはみんな、もう何年も前から斉彬が藩主になるのを待っていたのです。

この頃のアジアは、おとなりの大国・清(中国)がイギリスとの戦争に負け、他の国も次々に植民地にされていくという激ヤバな状況

なのに幕府の偉い人たちは
「外国船が来ても、今までと同じように追い払えばいい」
「今まで何とかなってたんだから次も大丈夫でしょ」
というお気楽な意見がほとんどでした。

阿部さんは自分の意見をガンガン押し通すのではなく、周りの意見をうまく調整してまとめるタイプのボス。
でも肝心の幕府の人たちの意見は、すでに「このままでどうにかなる」という方向でまとまっちゃっています
「このままじゃ日本もヤバい」とちゃんと理解していた阿部さんにとっては、思いっきりアウェイな状況でした。

そこで阿部さんは、斉彬をはじめ、海外の情勢に詳しい西国の大名たちとの関係を深めていきます。

佐賀藩主・鍋島正直(なべしままさなお)
福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)
宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)
土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)

いずれも斉彬と仲が良く、とっても開明的な藩主たちです。
彼らは“外様大名”(関ヶ原の戦いより後に徳川家にしたがった大名)で、徳川幕府の政治にはかかわれない決まりでしたが、阿部さんには彼らの力が必要だったのです。
幕末の幕府に吹き荒れる大改革の嵐は、ここから始まろうとしていました。

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黒船来航④ その時、彼らは(海上・オランダ・佐久間象山)